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『二泉映月』 随想 2
『二泉映月』という曲の「二泉」というのは、
中国、江南地方、無錫の恵山の傍にある天下第二泉のことです。
皆さんもご存知のように、この曲は中国の代表的な民間二胡奏者、
阿炳(a bing)による演奏が有名ですが、
いま中国の大半の二胡演奏家は、
「二泉」という言葉のイメージからなのか、
“美しい景色”を音で表現しようと努めているのではと思われます。
いわゆる“綺麗”なBGMタッチの『二泉映月』が多いのはおそらくそのためです。
一方、日本においては、やむをえないことなのかもしれませんが、
何故か「癒し系」の曲の一つとしてとらえられているきらいがあります。
日本の多くの二胡ファンを魅了している曲であるだけに、
残念なことではあります。
私は、もっと多くの方々に原曲への理解を深めていただき、
元々のこの曲にこめられた魂を伝えていきたいと思っています。
作曲者でもある阿炳自身の演奏による『二泉映月』の
録音原盤の音を聴いていただくと、
この曲が“美しい景色”や“癒しのサウンド”とは
まったく別の世界を表現していることを
皆さんにもご理解いただけることと思います。
阿炳の演奏は、大きなうねりをともなう氣の流れを感じさせる、
実に骨太で、ときに荒々しくさえもあるもので、
自然で、正直な感じの音色です。
そして同時に、人情の機微を深いところまで解しているかのような
滋味豊かなものです。
それは阿炳自身の荒波にもまれ続けて一生を終えた人生に
由来するものなのだろうと私は思います。
阿炳の演奏で皆さんに注目していただきたいのは、
まず、その独特のリズムの「流れ」です。
二胡という楽器を演奏するうえで、
「リズム」をどのようにコントロールし、表現に反映させていくかは、
大変重要で、ときに難しいものでもありますが、
阿炳の『二泉映月』は、特殊ともいえるほどに
彼独自の流れをもったリズムでの歌い方をしており、
それは一朝一夕には真似することすらできません。
長い年月をかけて、だんだんと少しずつ、体で理解するしかないものです。
どこか「人生そのもの」に似ています。
曲全体の基本の感じとしては、
阿炳は、おそらく皆さんの想像よりもかなり早い、
気持ちいい速度で演奏しています。
また、両手の動きに特色があり、
江南地方独特の個性的な音の出し方をしています。
「滑り音」や「飾り音」、ビブラートのかけ方、音のつなぎ方などに注目して聴くと
勉強になると思います。
私は阿炳の『二泉映月』の演奏に初めて触れたとき、
あまりのすごさにただただ感動し、
なんとかして阿炳の音に一歩でも近づきたいと思いました。
そして願わくば、阿炳と同じくらいオリジナルな「程農化の二泉映月」に
いつか到達できたらと思ってきました。
しかし、その道のりはまさに修行でした。
私の二胡の師匠である趙硯臣先生は、
その二胡人生すべてをかけて『二泉映月』を研究し、
その道の権威として知られている方です。
いまは「無の心」に達せられ、静かな暮らしを送っておられます。
先生はあるとき私にこうおっしゃいました。
「阿炳の『二泉映月』は彼の「言葉」なのだ。
ゆえに『二泉映月』は、歌うのではなく、語らなければならない」
二胡の演奏というのは普通は「歌う」ものです。
しかし阿炳の『二泉映月』は、歌っているのではなく、
語っているものだと先生はいうのです。
盲目の民間芸術家として、彼の心の中には、言葉にならない言葉が
きっとたくさんあったのだろうと思います。その思いを音にのせて語っている、
それが趙硯臣先生が私に教えてくれた『二泉映月』の真の姿でした。
これはしかし理解するのには多くの時間を必要としました。
私自身の人生経験が浅いうちは到底理解できるようなことではなかったのです。
2004年7月、猛暑の夏におこなわれた新作CD『故郷情歌』の
『二泉映月』のレコーディングは、前回も書きましたが、不思議な体験でした。
現代のレコーディングというのは、
一つの曲をいくつかの段に分けて細かく録音し、
それをスタジオの技術で切り貼りして一曲に仕上げることも多いのですが、
『故郷情歌』の中国編は、各楽器の演奏者が一同に会して演奏する
「ライブ感」を重視したものであり、
特に『二泉映月』は、一氣呵成に演奏しないと、
魂のこもったものにならないことは自分でもわかっていました。
必ず一曲の最初から最後までを一氣に演奏する、
この私の願いをプロデューサーの春名さんは受けとめてくれました。
そんな思いで臨んだレコーディングは、
その間の記憶が定かでないほど、
宇宙全体と一体になることができたかのような時間でした。
『二泉映月』をよく知っている方が聴くと、
私が演奏を間違えていることに気づくと思います。
レコーディングが終わって我にかえり、演奏の間違いに気づいたとき、
一瞬ですが迷いました。「二胡演奏家」として、それでいいのだろうか・・・と。
けれども、その演奏のミステイクが、
偶然にも新たな『二泉映月』を生み出していたことにも気づいたのです。
(ポイントは「ラ」と「ソ」の違いにあります。)
これはもしかしたら、
私が追い求めていた「程農化の二泉映月」といえるものなのかもしれない、
直感的にそう思いました。
私にとって『二泉映月』という曲は、
人生の喜怒哀楽、歓び、悲しみ、出会い、別れ、
それらすべてを含んだ「人生そのもの」であり、
その自然な「流れ」でもあります。
そして、そこに明るさ、元氣さを少しだけ強調した感じのもの、
それが今の「程農化の二泉映月」です。
もちろん、これでゴールに到達したとは思いません。
これまでも、これからも、『二泉映月』の演奏は、まさに一期一会であり、
人生と一緒で、終わることのないプロセスです。
これからも『二泉映月』とともに一歩一歩、
「二胡人生」を歩んでいこうと思います。
程 農化
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